妻を亡くして思うこと

 妻が亡くなって1年4ヶ月、ようやく落ちついてきた感じではあるが、今でも思い出すと目頭が熱くなる。元気な時にあれこれしてやれなかったことが悔やまれるのだ。

 人工透析を14年やってたから、旅行など行こうにも行けなかったのであるが、近場で食事などちょくちょく行っておればと、今になって思い返すのである。

 団体の役員をしていたとき、役員で夫婦同伴の旅行がたびたびあったのであるが、その時はいつも一人で参加したものだった。それも今思えば残念なことだったとおもうのである。

 最近、元気そうな中年の夫婦連れを見ると、羨ましく思うようになった。我々も元気であったならばこうあったものなのにと思うのである。

 亡くなって暫くは納骨せず手もとにおいていた。そのときは霊はあの世ではなく、仏壇の骨とともにあると考えていた。納骨後もあの世に行ったのではなく、なお仏壇の中にいて位牌に宿っているのではないかと強いて思うことにした。

 仏壇に向かって線香をあげるとき、写真に向かって言葉を発している自分に気がつく。写真に霊が宿っているとは考えにくいが、仏壇の位牌を中心とした一段のものに宿っでいると思い、話しかけたり願をかけたりするのである。

 もうすぐお盆である。盆には霊が帰ってくるという。そうすると普段はどこにいるの。あの世か。盆にはあの世から来り、過ぎたらあの世に帰るというのか。そうは考えたく無い。

 仏壇にいて欲しいと考えるのである。

 いつもいつも、身近にいて欲しいと願うのである。